居間でオナラをすると、
「ちょっと!」
愚妻が怒る。
「屁くらいさせろ」
「ここでしなくてたっていいでしょ!」
罵り合いが一日に何回となく繰り返される。
コロナ禍の巣ごもりは、こんなところにまで影響しているのだ。
それはさておき、不思議なのは、どんな小さなオナラ音でさえ聞き分ける愚妻が、私が発した言葉には「えッ?」と訊き返してくることだ。
「オナラは聞こえるのに、なぜわしの言葉は耳に届かないのだ」
文句を言うが、
「オナラは聞こえるようになっているのよ」
意に介さない。
たぶん、私のオナラに苛立つ愚妻の耳は、「プッ」という音に過敏になっているのだろうと思っていたが、いましがた日帰り温泉の露天風呂に浸かっていて、はたと閃いた。
オナラ音には意味がないため、音について考える必要はない。
だが、私が発した言葉は違う。
意味を理解しなくてはならない。
だから愚妻は「えッ?」と訊き返すのではないか。
つまり理解力に劣るのだ。
ここに音の本質がある。
お経を知らない人は聞いていて眠くなるが、僧侶はそうではない。
ミュージックも、外国語もしかり。
音とはそうしたものなのだ。
となれば、稽古で子供たちに説教しても心に響かないのは、理解を超えた話し方になっているのかもしれないと気がついた次第。
たかがオナラ、されどオナラ。
ありがたいことに、愚妻の怒りで、また新たな発見をしたのである。