スイカに塩を振って食べれば甘くなるということを教えてもらったのは、小学校の低学年のときではなかったか。
なぜそうなるのかまでは考えが及ばず、
(へぇ、そんなもんなんだ)
と、えらく感心したものだ。
いま振り返れば、「木の葉が沈んで石が浮く」という世の不条理を素直に受け入れるようになったのは、このときからである(そんなわけはないか)。
スイカと塩の関係は「味の対比効果」によるものだ。
塩辛いという知覚が甘いという知覚を増幅するわけで、スイカの甘味の絶対値が増したわけではない。
だが、絶対値は同じであっても、「より甘くなった」と知覚する以上、これは甘味の絶対値が上がったということになるではないか。
ここに「数値(理屈)」と「現実」のギャップがある。
たとえば、世のなかには「イヤな人間」と呼ばれる個体は存在しないとされる。
「あいつ、イヤなヤツ」
という感情は、自分がそう感じているだけであって、「イヤな人間」が存在しているわけではない。
仏教的に言えば、「イヤな人間」は自分がつくり出しているというわけである。
これが理屈。
だけど、自分がつくり出そうが何しようが、
「あいつ、イヤ」
という思いは存在する。
これが現実。
となれば、「イヤな人間」と呼ばれる個体は存在するということになるではないか。
だが、仏教は「すべては関係性によって存在する」(諸法無我)と説き、実体はないとする。
では、「スイカと塩」「イヤな人間」を持ち出して法話を組み立てればどうなるか。
「スイカと塩」のことがひょいと脳裡に浮かんだおかけで、このクソ忙しいときに、あれこれ考えてしまうのだ。