クルマを1台にしたら、やはり不便である。
愚妻は今朝も「日帰り温泉」に出かけたので、クルマが使えない私は身動きがとれない。
畑をやっていたときは、畑用と合わせて3台あり、これは大変だった。
といっても、大変なのは愚妻で、ガソリンを入れに行くのは愚妻の役目。
日によっては、1台ずつ3回に渡って給油に出かけていて、
「大変なんだから!」
とブツクサ言っていた。
私はいまもって、ガソリンの給油口をどうやって開けるのかも知らない。
無精なのではなく、「創造性」のない作業が嫌いなのだ。
だから、風呂にどうやってお湯を張ればいいのかも知らない。
洗濯機も回せない。
ガスコンロ(だと思うが)、それも使えない。
電子レンジもダメ。
そういうことをすることが嫌いなのだ。
で、フツーの女房なら、
「私が先に逝ったらどうするのかしらねぇ」
と心配するところだろうが、愚妻にそれがいっさいない。
亭主のことを案じていないのではない。
自分が先に逝くという発想が、そもそもないのだ。
僧籍にある亭主は「この世の無常」を説いているというのに、妻としてあるまじきことではないか。
無明の見本のような愚妻で、バチ当たりもここに極まれりと思いつつも、
(しかし)
という思いもよぎる。
仏教は、苦の根源を無明にあると説くが、ホントにそうだろうか。
無常ということを知らず、思いも馳せず、学びもせず、楽観と享楽の人生を送るのもまた一興。
どうも仏教は「苦」ということにこだわりすぎるように思う。
煩悩から逃れられない以上、どんなにハッピーな人生であろうとも、苦は生涯ついてまわる。
だから、苦と二人三脚で肩を組めばいい。
享楽によって苦が生じるなら、苦と肩を組めば享楽に転じるのではないか。
すなわち、享楽と肩を組めば苦に転じ、苦と肩を組めば享楽に転じる。
転じ転じて、人生は右へ左へとジグザクに進んでいく。
案ずるなかれ、である。