『はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る』
とは、石川啄木のよく知られた詩である。
この詩に接したのは中学時代だったか。
(へぇ、人間は絶望したときに、じっと自分の手を見つめるんだ)
と、何やら物知りになった気がした。
駆け出しのライター時代、この詩を目にしたときは、
(ホンマやでぇ)
と、「働けど楽にならざる」に共感した。
取材で手相鑑定家と会ったときは、
「手相には人生の地図が描いてあるんです」
という鑑定家の言葉に、
(なるほど、そうなのか)
と感心して、じっと手を見たが、地図にしてはずいぶんアバアトな気がしたものだ。
そして、
『水を掬(きく)すれば 月 手に在(あ)り』
という禅語に接して、
(そうか!)
と合点したのである。
この言葉の意味は、
「月夜に水を手で掬(すく)って見れば、月の光は手のなかに宿る」
というもので、「慈悲の光りはすべての人にそそがれており、水を手で掬うという働きかけや修行があって初めてそれに気づく」とさとすわけだが、私は《月の光り》を《幸せ》に置き換えて読み解く。
すなわち、
「人間は絶望したとき、自分の手のひらのなかにあるはずの〝掌中の月〟を無意識に探し出そうとして、じっと見つめるのではないだろうか」
と、そんなことを考えるのである。
ためしにそんな思いで、自分の手のひらを見ていただきたい。
また違った感慨がわいてくるはずである。
啄木の「じっと手を見る」を考える
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