歳時記

『忠臣蔵』で考えた

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 年末が近づくと、例によって『忠臣蔵』である。
 先夜も、打ち合わせから帰宅すると、時代劇マニアの愚妻がテレビの前に陣取って『忠臣蔵』を観ていた。
「『忠臣蔵』がそんなに面白いか」
「悪いかしら」
「悪い。なぜなら『忠臣蔵』は、釈迦の教えに反しておるからだ」
「ちょっと、今いいところなんだから、あとにして」
 画面から目を離さずに言った。
 愚妻は『忠臣蔵』、駄犬の〝マック爺さん〟はコタツ布団の上で惰眠をむさぼっている。
 何と幸せな〝妻犬〟であろうか。
 釈迦は、原始仏典『ウダーナヴァルガ』において、次のように説く。
「この世において、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みをもってすれば、ついに怨みのやむことはない。堪えしのぶことによって怨はやむ。これは、永遠の原理である」
 あるいは、親鸞の師である法然は九歳のとき、父親が敵対する武士の夜襲を受けて亡くなるのだが、
「親の仇は討ってはならない」
 と、幼い法然に言い残した。
「怨みの連鎖を断ち切れ」と、父親は諭(さと)したのだ。
 武士にとって、仇討ちは義務であった。
 だから赤穂浪士が賞賛されることはわかる。
 だが、現代社会に生きる私たちが、怨みに対して、怨みをもって報いる活劇に胸躍らせるのは、いかがなものであろうか。
『忠臣蔵』が終わって、そのことを愚妻に説こうとすると、
「ダメ」
 と言下にさえぎって、
「うまいこと言ってもダメダメ。私はこれまであなたにかけられた苦労を絶対に忘れませんからね」
 キッとニラんだ。
『忠臣蔵』を観たせいか、私は吉良上野介にされているのだ。
 

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