歳時記

京都駅のエスカレーターで

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 ものぐさな私は、振り返るのが面倒で、大嫌いである。
 だから愚妻に話しかけるときは、前を向いたままで言葉を発する。
 愚妻は私の左側、三十センチほど後ろをついてくることになっているから、それでじゅうぶん会話が成り立つのだ。
 で、京都駅のエスカレーターでのこと。
 日本酒の宣伝ディスプレーが目にとまったので、
「おい」
 と愚妻に話しかけた。
「そもそも日本酒はだな、銘柄に迷ったら剣菱にしておけと言われておるのを知っているか。なぜかと言うとだな」
 返事がないので、
「おい、聞いておるのか」
 語気荒く首をひねると、五十がらみの和服を着たご婦人が、顔をひきつらせ、前方を凝視したたま固まっていた。
 人違い。
 混雑のなか、愚妻は遅れをとって数メートルあとにいたのである。
 愚妻が笑いを噛み殺している。
 なんと、ひねくれた性格であることか。
「バカ者。私は人生を振り返るのが大嫌いなのだ。だから歩いていても、振り返るということをしない。それを笑うとは何事だ」
 私は叱責したが、愚妻はなおも嬉しそうな顔をして、
「でも、人違いはいつものことじゃないの」
 何を言っても動じない愚妻なのである。
 

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