着物を着て、どこへでも行けるようになった。
袴(はかま)も何とか大丈夫。
要するに馴れたのである。
これまで、帯の結び方から袴の付け方、着崩れの直し方など、本やDVDを見ながら熱心に研究。外出しても、おっかなびっくりであったが、それが何ともなくなった。
というより、着物の着崩れなんか気にする必要はないということに気がついたのである。
眼からウコロは、愚妻がファンの時代劇チャンネルだ。
見るとはなしに見ていて、ハタと気がついた。
(そうだ、江戸時代はすべての人が着物を着ていたのだ!)
この当たり前のことに、なぜいままで気がつかなかったのだろう。
彼らは着物を着て、チャンバラもすれば、尻端折りして走りもする。
着崩れだ何だと気にしてる人間は1人もいないのだ。
要は馴れなのだ。
ところが、私は知識から入ろうとした。
着崩れした場合など、いろんな仮定を立て、その対処法を研究した。
頭で描く仮定だから、「もし」という仮定はいくらでも出てくる。
それをすべてクリアして踏み出そうとするから、結局、なかなか踏み出せないでいたというわけである。
もし着崩れすれば、その都度対処していけばいいのだ。
そのことに気づいて、目からウロコというわけである。
人生も同じだ。
あれこれ仮定を立て、その対処法をまず考える。
病気になったら、失業したら、住宅ローンが返せなくなったら、受験に失敗したら、とあれこれ仮定を立て、その対処を考えてから行動に移そうとする。
だから、いつまでたっても不安がぬぐえないでいる。
着物と同じように、まず着ること。
まず人生を踏み出すこと。
つまり着物も人生も、習うより馴れろということなのだ。
そして、この〝馴れ〟を人生経験というのだろう。
「転ばぬ先の杖」
ということわざがある。
(もし、転んだら)
という仮定に立った考え方だ。
転ぶかどうかわからないことに心を砕いて杖を探すより、まず歩き出すことが肝心なのではないか。
転んだら起き上がればいいのだ。
それに、人生、転ぶと決まったわけではないのだ。
「転ばぬ先の杖」という人生観
投稿日: