江戸時代、禅宗の高僧に仙崖(せんがい)という人がいた。
日本最古の禅寺、聖福寺に請われて入り、123世となるのだが、権威を嫌い、生涯を黒の袈裟(けさ)で通した。
その仙崖禅師の言葉に、
「鶴は千年、亀は万年、我は天年」
というのがある。
長寿であれ短命であれ、自分は天から授かった寿命をまっとうするだけだ、という意味で、これは禅僧として悟りの境地と言っていいだろう。
ところが。
仙崖禅師は87歳で亡くなるのだが、臨終にさいして何と言ったか。
「死にとうない、死にとうないで」
そう言ったのである。
まさかの言葉に耳を疑ったのは、枕頭で見守っていた弟子たちである。
あわてて真意を尋ねたところが、
「ほんまに、ほんまに」
と答えたという。
さて、「死にとうない」という仙崖禅師の言葉をどう取るか。
もし、私がそう言ったのであれば、
「ジタバタして、まったくしょうがねぇな」
と悪口を言われるだろう。
だが、相手が仙崖禅師となると、受け取り方は違ってくる。
きっと深い意味があるはずだと真意を探る。
私も探った。
その結果、
(ハハーン。きっと仙崖は、〝ことほどさように生への執着は断ちがたきもの〟ということを、臨終の言葉をもって教えたに違いない)
そう結論した。
真偽はもちろんわからない。
わからないが、
「あの人の一言(いちごん)にはきっと深い意味があるに違いない」
と考えさせるところが、偉人の偉人たるユエンだろう。
言葉自体に「力」があるのではない。
誰がそれを発したかによって「力」をもってくるのだ。
同様に、どんな立派な言葉も、凡人がそれを口にしたのでは、凡庸な言葉になってしまうということになる。
これが「人格力」というものだろうと、考える次第である。
「言葉」と「人格力」
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