昨日、所用があって本願寺築地別院へ出かけた。
日曜日とあって、本堂は参拝者が多かった。
私も手を合わせたあとで、ふと「寿命」ということが気になってきた。
(長生きすることは、いいことなのか)
という思いである。
世のなかには、病気や事故などで、生きたくても生きることのできない人がたくさんいる。
そういうことから言えば、長寿は喜ぶべきことだろう。
だが、現代人の多くが老後に不安を抱えているように、「長生き」そのものが不安のタネになっている。
病気を克服し、長寿を願って医学が進歩し、長寿になるにつれて「生きること」が重荷なってくる。
ならば、さっさと死ねばいいようなものだが、死にたくはない。
短命もいや、長寿もいや、死ぬことはもっといや、というわけで、まさにこれこそ人間のワガママの極(きわ)みだろう。
このワガママを苦悩の源泉であるとするなら、宗教が人間にとって不可欠であることがよくわかるのである。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
ということわざがあるが、私たちの「苦悩」もそれと同じではないか。
つまり「苦悩の正体」は、「死に対するワガママ」であるということだ。
死は必定であるにもかかわらず、「早い」だ「遅い」だ「短命」だ「長寿」だと、勝手な思いを抱いている。
子育ての最中の親御さんにとっては、我が子を残して死ねないという思いはあるだろう。
それが親の愛であり、人情というものだ。
だが、明日のことは誰もわからないのだ。
となれば、やはり、きよう一日を精一杯生きることでしか、人生の充実はないということになる。
「短命」を「長く生きることができなかった苦しみ」とするなら、「長寿」は「長く生きたことの苦しみ」ということになる。
どっちに転んでも苦しみなら、笑顔の絶えない一日でありたいと、私は思うのである。
「長寿」と「短命」
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