どうやっても消滅できないのが煩悩(ぼんのう)だとされる。
要するに「欲」のことだ。
しかもその欲は、求めて際限がない。
だが原始の昔から月にロケットを飛ばす現代まで、人類の歴史は「欲」を原動力として発展してたと言っていいだろう。
もちろん視点を変えれば、それが「発展」であるかどうかは意見の分かれるところだろうが、社会通念に従えば、人類の歴史は発展の歴史である。
すなわち「より早く、より便利に、より快適に」という欲(煩悩)が、経済発展という〝お金もうけ〟とリンクすることで発展し、いまも加速し続けているというわけだ。
このことは、経済とリンクしするということにおいて、医学も福祉も教育も例外ではない。
となれば、煩悩が人間を苦しめ、不幸にする諸悪の根源である以上、今日の科学的・経済的・医学的・福祉的発展は、煩悩によって咲いた徒花(あだばな)ということになる。
つまり、煩悩を消滅しようとする努力は、いま言った社会通念上の「発展」を否定することになる。
難しいですなァ。
釈迦の教えに従えば、原始の昔こそに幸せの原型ということになる。
新幹線がなくても、パソコンがなくても、ファッショナブルな服がなくても、美味なる料理がなくても、ちょっとした病気で死のうとも、それこそが幸せということになる。
だが、煩悩は消滅できないものであるから、原始生活には決して満足しないだろうし、実際、しなかった。
と言うことは、私たちがそうと気づかないだけで、洞窟に暮らした太古の昔から、煩悩が加速してやがて月にロケットを飛ばすであろうことは、既定のことであったということになりはしないか。
月面に着陸したからといって、
「人類にとって偉大な第一歩」
と、はしゃぐことはないのだ。
ならば、人類はこれからどこへ向かうのか。
そんな思いにとらわれつつ、
(くだらないこと考えてないで、早く原稿を書かねば)
と気はあせる。
ついこのあいだ、「生産性こそ命」の勝間和代女史の高著を拝読したばかりだというのに、ちっとも身になっていないのだ。
でも、しょうがない。
私は、「脳」ではなく「煩悩」が人一倍、大きいのだ。
私は勝間女史のように生産性人間にはなれないのだ。
くだらぬことが次から次へと加速しつつ浮かんでくるのは、これはやむを得ないことなのである。
煩悩は「加速」する
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