道場の一隅に私の仕事部屋がある。
八畳ほどの広さで、長机に本箱が数個、冷蔵庫、複合コピー機、さらに小さなテーブルと椅子が四脚。狭くてコクピットのようだが、気分転換や考えごとをするときは、道場に出てうろうろ歩きまわる。
夏は道場にゴザを敷いて昼寝をする。
これは気分がいいものだ。
それはさておき、私は仕事部屋で香を焚く。
以前は、お寺の本堂の〝線香臭〟があまり好きではなかったが、いまは大好きである。取っつきにくいものほど、ハマるというが、これは本当である。
で、気に入ったお香を買ってきて焚くわけだが、先日のこと。
「何か匂わない?」
小学生の男の子たちが道場で話をしている。
「匂うね」
「何の匂いだろう」
「あっ、葬式の匂いだ!」
この会話を聞いて、香の匂いが道場に漏れないよう、私は気をつけるようになった。
葬式の匂いであって大いに結構なのだが、なぜ「結構」であるか、子供たちに説明するのは難しい。
「キミたちも、そのうち死ぬんだよ。だから、今日という一日を精一杯に生きなさい」
そう言って、納得する子が何人いるだろうか。
子どもに「命の尊厳」を教えることは大事だ。
だが命は、「死」があってこその「生」である。
子供たちに「死」から見た「命」を教えるのは正しいことなのだろうか。
かつてお寺であった〝日曜学校〟のように、一定の時間をかけ、継続的に「命」を説いていくならよい。
しかし、たまたま匂ったお香を引き金にして、「命」を説くのは誤解の元だろう。
空手指導者に、そこまで求められるものではあるまいと思いながらも、曲がりなりにも僧籍にある者としては、どうしても考えてしまうのである。
さて、どうしたものか。
そんなことを考えながら、道場には匂わないよう、先ほどお香に火をつけた。
お香の匂い
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