昨日、北総空手道連盟(千葉県北総地区)の空手道大会があった。
私も一員だが、同連盟はNPO法人で、
「空手道を通じて、いかに地域に貢献するか」
ということが真剣に論議されるなど、なかなか先進的な組織だと自負している。
さて、大会のこの日、子供たちの「態度」が本部席で話題になった。
開会式での整列ができていない。
姿勢が悪い。
私語がある。
「こんなことでいいのだろうか」
というわけである。
「試合偏重の弊害ではないか」
「礼儀やしつけを抜きにして、空手道の存在意義はあるのか」
そんなことが話題にのぼり、私もそう思った。
そして一夜明けたいま、ふと考えた。
(子供たちの礼儀やしつけがなっていない原因は、どこにあるのだろうか?)
私たち指導者である。
指導者の私たちに責任があるのだ。
「こんなことでいいのだろうか」
と問題にされる対象は、子供たちではなく「指導者」ではないのか。
そして指導者の責務とは、
「礼儀正しくせよ」
と叱る前に、みずからが礼儀をただして見せることではないのか。
自戒をこめてそんなことを考えているうちに、指導とは、実は、空恐ろしいことなのだと、あらためて気づいた。
「弟子たちから見て、自分は指導者たり得ているのか」
この問いを発することから指導は始まるのだと、自分に言い聞かせた。
確固たる人生観なき指導は、ただの遊びなのである。
「指導」の本質
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