今日は、編集マンの小松卓郎君と新潟に行き、良寛が諸国放浪の果てに暮らした国上山中の五合庵など、ゆかりの地をめぐってきた。
周知のように、良寛といえば乞食行脚の「清貧の生き方」として知られるが、六畳足らずの粗末な草庵の前に立ち、「良寛の清貧」とは何かについて自問してきた。
そこで思った一つは、
(良寛のごとく、自ら望んだ《貧しさ》は《苦》とはならないのではないか)
ということだった。
良寛は《苦》どころか、無一物の境涯に身を置くことで絶対幸福の境地を手に入れているのである。
すなわち《貧しさ》の本質は、《貧しい》という事実そのものよりも、
「望まずして貧しくなった」
という〝望まず〟にあるのではないだろうか。
逆説的に言えば、艱難辛苦も逆境も、そこから逃避しようとするのではなく、自らその境遇を望んだとなれば、《苦》にはならないということになる。
屁理屈でもなければ、言葉の遊びでもない。
人間が「精神的な生き物」である以上、《苦》も《楽》も絶対事実として存在するのではなく、自分の感情として存在するということなのではないだろうか。
そんな人生の要諦を良寛の生き方に見るのだが、この小コラムでそれを論じるには紙幅が足りない。興味のある方は、今月、良寛をテーマに「清貧の生き方」を論じた拙著が発売されるので、手に取っていただければ幸いである。
良寛は前々から興味を抱いていたテーマなので、「目からウロコ」と自負する一冊である。
良寛を越後に訪ねる
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