歳時記

精神的にひ余話な子供を考える

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 自分の意志をハッキリ伝える子供が少なくなった。
「あのう、手が痛いんですけど……」
 道場で、こんな言い方をする。
「そうか。それで?」
 私が先をうながすと、
「はッ?」
 という顔をするのだ。
「痛いのはわかった。だからどうしたいんだ? 稽古を休みたいのか、手に力を入れないでやるというのか、組手だけ休むというのか。何が言いたいのかハッキリしろ」
「組手を休みたいんですけど」
 こうやって初めて会話が成立するのである。
 子供だけではない。
「館長、来週、ちょっと忙しいので……」
 若者もこんな言い方をする。
「忙しいからどうしたんだ」
「稽古を休みたいと……」
 かつて日本は、口にハッキリ出さないで〝会話〟してきた。
「みなまで言わせるなよ。わかってるだろ?」
 あからさまに口に出すことで、人間関係を損(そこ)ねるかもしれないという気づかいからだ。
「だが、それは日本独特の文化であり慣習だから、世界には通用しない」
 というのが戦後の考え方で、自分の意志をハッキリと相手に伝えることが大事だと教育された。
 これが「自主性」というやつである。
 なるほど「自主性」は身についたが、たとえ自分に非があっても、自分は正しいのだと〝自主性〟をもって主張するようになったため、おくゆかしさという日本の美徳はなくなってしまった。
 これを私は残念に思っていたのだが、ここへきて子供たちから〝自主性〟が陰をひそめ始めたというわけである。
「あのう、手が痛いんですけど……」
「だからどうした?」
 こんなやりとりを子供たちとするたびに、自主性の欠落を痛感するのだが、この原因はどこにあるのだろうか。
 親の過保護にある、と私は思っている。
 子供が何をしたいのか、どうしたいのかを自己主張する前に、
「どうしたの? お腹がすいたの?」
「どうしたの? 足が痛いの?」
 お母さんが先走りして問いかけてしまうため、子供はコックリ、とうなずくだけとなる。
 だから自分の意志を口にしなくなる。
 する必要がないのだ。
 その結果、意志をハッキリ主張しなくてはならないときに、それができなくなる。
 そういう訓練がなされないのだから、当然だろう。
 だが、〝自主性〟が陰をひそめたからといって、おくゆかしさという日本の美徳がもどってきたわけではない。
 単に、精神的にひ弱になってきただけのことなのだ。
 しつけは家庭でなされるものだが、本当に家庭でそれができるのだろうか。
 そんなことを考えつつ、道場に出るのである。
 

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