「正月らしくなくなった」
と言われて久しい。
元旦からフライドチキンやカレー、ピザを食べていては、正月の雰囲気はあるまい。これらの食べ物が悪いというのではなく、かつて正月には食べなかったと言っているのだ。
子供たちの遊びも、凧揚げや独楽(コマ)、羽子板、歌留多の代わりにテレビゲームだ。テレビゲームが悪いというのではなく、〝正月の遊び〟が無くなったと言っているのだ。
大型スーパーも、元旦から開いている。
これが、正月らしくなくなったトドメの一撃ではないかと、私は思っている。
かつて正月三ガ日といえば、お店はどこも休みで、だからお節(せち)を用意して家にこもった。
正月の団らんである。
「店が休み」という〝非日常性〟が正月の大きな特徴だった。
ところが元旦から大型スーパーが開いているのだから、そうと意識しないまま、正月は昨日の続きであって特別な日ではなくなったというわけである。
店側にしてみれば、
(正月も営業すれば儲かるじゃないか)
と考えたのだろう。
「正月は仕事をするもんじゃない」
という〝価値観〟なんて時代遅れ、と考えれば、正月に営業するのは当然だろう。
これと同じ発想が、社会のそこかしこに見られる。
かつてコンビニエンス・ストアの営業時間は、夜の11時までであった。セブン・イレブンという社名が何よりそのことを表している。
ところがコンビニ間の競争が激化するにおよんで、
(朝まで営業したほうが儲かるじゃないか)
となった。
テレビだって、昔は夜の11時くらいで放送は終わりだった。
それが深夜にまで放送時間が延び、
(どうせなら朝まで放送したほうがスポンサーもついて儲かるじゃないか)
となっていったのである。
つまりスーパーの元旦営業も、元旦のカレーやピザも、コンビニの営業時間もテレビ放送も、これまで日本人の慣習や価値観として「空白」であった部分に、ズカズカと入り込んできたというわけである。
要するに、慣習という曖昧な価値観の間隙(かんげき)をついた〝間隙ビジネス〟が、日本から〝日本らしさ〟を削ぎ取っていっているように、私は思うのである。
そいう意味で、日本文化から「間隙」というものが、どんどん無くなっている。
なるほど「間隙」は「無駄」である。
だが「書」が、余白という〝無駄〟な部分があって成立するように、私たちの生活もまた、「間隙」という無駄があってこその潤いではないだろうか。
「間隙」という曖昧な部分を「文化」とするなら、間隙が無くなるにつれて日本文化が「らしくなくなる」のは当然だろう。
習慣や価値観は時代とともに変わっていく。
それはいい。
何かを得れば、何かを失うのは当然だ。
だが、私たちは「正月の風情」を失った代わりに、いったい何を得たのだろうか。
酒を飲まなくなった私は、元旦早々、醒めた思いでそんなことを考えるのである。
〝間隙ビジネス〟と日本文化
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