昨日、畑に出かけた。
「ジャガイモを植える準備をせにゃいけん」
と、指南役の親父が言い出したからだ。
「ジャガイモは来年だろ?」
私は忙しいので、やんわり抗議するが、
「畑を少しずつ耕しておくんじゃ。いっぺんにゃできん」
と84歳は譲らず、
「それに」
と女房に向かって、
「収穫があるじゃろう」
このひと言で、女房の表情が一変。
それまで私の味方をしていたのだが、
「そうよ、収穫しなくちゃ」
バチ当たりが、嬉々とした笑顔で私に言ったのである。
かくして畑に出かけた次第。
久々の晴天だそうで、Tシャツ一枚になって鍬を打ち込んでいると、親父と女房の会話が聞こえてくる。
「これだけの畑を耕すのは大変じゃ。耕耘機を買おうか?」
「そうだわね」
「じゃ、明日にでも見に行ってみるか。――おい、明日、耕耘機買いに……」
「ダメだ!」
私は振り返って叫んだのである。
晴耕雨読とはいかないまでも、鍬を振るうことを楽しみにしてきたのではないか。
商売でやっているのではない。
不便さゆえに、畑仕事の楽しみがあるのだ。
ところが人間というやつは、馴れるに従って「便利」という工夫を始める。
スローライフとやらを求めつつも、精神構造は結局、〝ファーストライフ〟のままなのである。
《這えば立て、立てば歩めの親心》
という言葉が唐突に脳裡をよぎった。
我が子の成長を心から願う親心、とこれまで解釈してきたが、そうではなく、〝親の欲目〟のことを言っているのではないか。
いや、〝親の欲目〟を引き合いに出しつつ、人間のあくなき欲求を揶揄(やゆ)しているのだと、畑で気がついたのである。
ただ鍬を打つことに喜びを見いだしていたはずなのに、耕耘機を買うの、軽トラックがどうのと言い出し、そのうち作物を市場に出荷してみたくなるだろう。
すなわち、
《打てば耕耘機、買えば市場のスローライフ》
ということになる。
その結果、またぞろ苦労を背負うことになるのだ。
趣味は楽しむものであって、決して凝ってはならない。
いま、そんなことを本気で考えるのである。
耕耘機なんぞ、クソくらえ!
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