脱稿のめども立ち、稽古のない日でもあるので、馴染みの鮨屋に顔を出してから風呂屋に行った。
いつもなら早々に上がって、休憩室でノートパソコンを叩くのだが、原稿が予定より捗(はがど)っているので、のんびり湯船に浸かっていた。
こんなとき、道場の子供たちについて思いをめぐらせる。
できのいい子、不器用な子、お茶目な子、やる気のない子……。
いろんな個性の子がいるが、指導者の数は限られているので、すべての子供を上達させるのは難しい。
難しいが、放っておくわけにはいかない。
で、湯船に浸かってはいても、いろいろと頭を悩ますのである。
結論から言えば、
「その子にとって将来、もっとも資するであろうと思われることを指導する」
というのが私の考えだ。
空手で活躍したい子共は技術をしっかり身につけさせる。
引っ込み思案の子供は、堂々と胸を張れるような指導を心がける。
思いやりのある子供には、さらにリーダーとして大成するよう人間関係をも指導する。
知的好奇心の旺盛な子供には、それをさらに刺激するような話を投げかけてやる。
やる気のない子には、いかに空手に興味を持たせるか……。
「その子の将来」などと言うと僭越の極(きわ)みだが、これは子供を預かる「指導者」としての責任だろうと私は思っている。
子供たちのことを考えていて、面白いことに気づいた。
個性に合わせて指導するということは、「多数対一」の関係である。
これが大変だと私は溜め息をつくだが、実は大人社会のほうがもっと大変であることに気がついたのである。
たとえば、こんな例はどうか。
奥さんが、亭主の尻を叩く。
「出世しなさい、もっと稼ぎなさい!」
亭主は家庭を顧(かえり)みず、仕事に没頭する。
すると、奥さんが言うのだ。
「なによ、仕事ばっかり。家族と仕事と、どっちが大事なの」
夫という「一人の人間」に「複数の個性」を求めるのである。
自動車で言えば、ケツを叩くときはF1マシンの高性能を求め、家庭を持ち出すときは軽自動車の利便性を求める。
F1マシンであることと、軽自動車であることの両方を求められる亭主はたまらないだろう。
ところが、道場で子供100人の個性に合わせるとしても、接し方と指導法を変えるだけであって、私自身の個性は変えなくてよい。
つまり、子供が軽自動車であり、トラックであり、F1マシンであって、運転するのは私なのだ。
とすると、「多数対一」というのは、実は楽なのはないか、と思ったのである。
こういう考え方をすると、親の子供たちに接する方法が間違っていることに気づく。
「勉強しなさい!」
「もうグズなんだから、もっとしっかりしなさい!」
「あんたねぇ、人にはやさしくしなくちゃだめなのよ」
一人の子供に「複数の個性」を求めたのでは、子供もたまったものではなかろう。
「我が子にどうあって欲しいのか」という視点が親にないから、その場の気分で、我が子にF1マシンを求めたり軽自動車を求めたりするのだろうと私は思っている。
「我が子にどうあって欲しいか」は、子供の成長につれて変わってかまわない。「いま何を求めるか」が大事なような気がするのだ。
上司と部下の関係も同じ。
いや人間関係すべてがそうだろう。
「昼は良妻賢母、夜は娼婦のごとく」
という言葉があるが、これは二律背反する人間の身勝手さを皮肉ったものであろうと、私は思うのである。
あさってから、一泊二日の子供たちの合宿である。
一人に「複数の個性」を求めるの愚
投稿日: