年を取ると、嫌味や小言が多くなるという。
私も年を取ったせいか、つい嫌味が口をついて出る。
地球温暖化を声高に叫ぶ欧米のエコ運動をテレビニュースで見れば、
(だったら、まず、おまえの国の軍隊をなくしたらどうだ)
と、テレビ画面に嫌味を言う。
実際、戦闘機やミサイル、艦船、戦車など、兵器が吐き出すCO2の量たるやハンパではあるまい。
「〝アイドリングSTOP〟よりも〝兵器をなくせ〟というのが本当のエコ運動じゃないのか。ブツブツ……」
あるいは、今夜。
道場から帰宅してテレビをつけると、先ごろオープンしたアウトレットが大人気で、駐車場に入るのに3時間待ちだとニュースが報じていた。
「ガソリンが高いとか安いとか言うわりには、けっこうムダをやってるじゃないか」
「後期高齢者医療制度で、日本の将来は真っ暗だと言ってるわりには、世間はノンキなもんじゃないか」
ブツブツと、私は嫌味を言うのだ。
女房は、
「うるさいわね」
と、そばにいて文句を言うが、毎日のニュースを見ていると、正直、嫌味を言いたくもなってくる。
円高になれば日本経済が大打撃を受けるとか、日銀総裁の椅子が空白になると日本の国際的信用は失墜するとか、サブプライム問題の余波で日本経済もヤバイとか、株価がどうだ、M&Aがどうだ、ヘッジファンドがどうだ……と、ニュースは連日、さまざまな危機を報じている。
だが、これらの〝危機〟は、私たちにはどうすることもできないのだ。
「円高がヤバイ? よっしゃ、みんなで下げようやないか」
とはいかないのだ。
「サブプライム? 困ったもんや。みんなで何とかしようやないか」
とはいかないのだ。
ハッキリ言って、私たちは「部外者」なのだ。
となれば、ニュースの持つ意味とは、いったい何なんだろうか?
「知る権利」「民主主義の根幹」――と言うなら、情報社会の発達に比例して私たちは幸せになっていかなくてはならない。
私たちは、より幸せになっているのか?
おそらく多くの人が首を傾げるに違いあるまい。
(輝ける21世紀! と新世紀の到来を煽り、期待させたのは、どこのどいつだ)
と嫌味なことを思っているうちに、ふと、
「《期待》は常に裏切られ、《悲観》は常に的中する」
そんなフレーズを思いついた。
ならば、《期待》もせず《悲観》しなければ人生は平穏という理屈になるが、それでは人生、味気ない。
(人間、あまのじゃくなものよのう)
と 自分を棚に上げ、今夜もブツブツ、嫌味と小言が私の頭の中でキャッチボールを始めるのである。
今夜もブツブツ、嫌味と小言
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