歳時記

世俗にあってこその「晴耕雨読」

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 3日に1回のペースでブログを更新するつもりでいるのだが、先週は我が昇空館の合宿が河口湖であるなど、瞬く間に1週間が過ぎた。
 多忙を理由として、流され行く日々に反省しきりである。
 おかげで原稿も押せ押せで、いま2時間ほど仮眠を取ろうとしたが、気が急いて眠ってもいられず、30分で飛び起きた次第。ハウツーから仏教、歴史、時代小説と、節操なく何冊も引き受け、尻に火がついて熱ッチッチ状態になっている。
 こういうときに限って、父親が「畑はいつ行くんだ」と催促してくる。
 台風の前に行ったきりなので、畑の状態が気になるのだと言う。なにせ畑までクルマで30分ほどかかるので、私が連れて行くしかないのである。
 手帳で予定を睨みつつ、水曜日の早朝、様子を見に出かけることにした。
 かくのごとく、晴耕雨読の人生を送るべく始めた畑に、最近は振りまわされつつある。欲から離れようとして、それが負担になるのだから、人生とは、ナルホドうまくいかないものである。
 そこで気づいた。
 晴耕雨読は世俗と離れた生活にあるのではなく、世俗の中にあって、その心境に達することではないか――。すなわち、世俗と離れた晴耕雨読は「逃避」ではないか、と思ったのである。
 と、まァ、そんなこんなと、いろいろ理由をひねり出し、我を励ましつつ、これからひと踏ん張りという次第。
 明日は、某少年院で保護司の研修会がある。移動はバスということなので、道中、居眠りできればいいな、と思っているのだが。

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