昨夜、鍼灸院の先生が、道場関係者の紹介で稽古の見学に来られた。年配の方だが、かねて空手・古武道に興味があり、私でも稽古できるか、というのが見学の理由だった。
温厚で、紳士で、話していて楽しい方だったが、
「上達するには、資質のようなものがあります」
という質問された。
珍しい質問である。
たいてい見学者は、「ケガはしませんか」とか「私でも続きますかね」といったように、「自分のこと」――すなわち主観的な質問するものだが、この方は、客観的な視点から質問されたのだ。
「そうですね。あえて資質を言えば、不器用で愚直なこと、でしょうか」
と私は答えた。
器用な人間は技の覚えも早く、試合にも勝つが、「あっ、こんなものか」とタカをくくってしまう。本人は一生懸命に稽古しているつもりでいても、慢心の芽生えてくる。
ところが不器用な人間は、なかなか上達しない。だからコツコツと愚直に稽古を続ける。その結果、大きく伸びるというわけである。
すると、この鍼灸医院の先生は、大きく頷いて、
「私どもの世界も同じです。器用な弟子は、一を習って十を覚えた気になる。だから伸びないんですね。その点、不器用な弟子は、まさにコツコツと修行していくから伸びていく」
そうおっしゃった。
このとき私は「発想」という言葉を思い浮かべていた。自分は安易に「発想」という言葉を使っていないか――という自問である、
いまの世の中、「発想勝負」の風潮がある。アイデア勝負と言い換えてもよい。ちょっとした思いつきや閃きで、ビジネスが大当たりするような風潮である。実際、発想ひとつでビッグビジネスに育つことは少なくない。
だが「発想」を得るには、得るだけの努力が必要であることを、私たちは忘れてはいまいか。努力――すなわち生む苦労をせずして「何かいいアイデアないかな」と中空を睨んでいる。
そんなことで、アイデアなど浮かんでくるわけがないのだ。
コップに水滴を貯めるがごとく、悶々と知恵を絞り、それでもアイデアが浮かばず、「ああ、ダメかな」と肩の力が抜けた瞬間に、ふっとアイデアは閃いてくるのである。
水滴もコップを満たせば、一滴で水はあふれるのだ。ところが私たちはコップに水滴を貯める努力をせずして、水をあふれさせようとしている。「発想勝負」の誤解である。いや、発想という言葉を借りた横着者の戯言なのである。
「妙想飛来」という言葉ある。
私の好きな言葉だが、妙想はじっとしていて飛んでくるのではなく、不器用に、愚直に努力した結果であることを、この鍼灸院の先生と話をしていて再認識した次第である。
「発想勝負」は横着者の戯れ言である
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