歳時記

「原因」を探ることの無意味

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 ドジを踏む。
「なぜ」
 と失敗の原因を考え、それを克服することで人間は進歩する――私は、これまでそう思ってきた。
 だが最近になって、「失敗の原因を探ることは無味ではないか」と思うようになってきた。
 たとえば、知人が飛行機に乗り遅れたときのことだ。
「次から早めに出たほうがいいね」
 と、私が注意して、
「そうするよ」
 と知人が言えば話はこれで終わるが、
「早く出たほうがいいのはわかっているけど、寝過ごしたんだ」
 と言ったことから、話はややこしくなった。
「どうして寝過ごしたんだい?」
「仕事が忙しくて、前夜は遅くまで残業したんだ」
「どうして忙しいんだ?」
「新規プロジェクトが始まったからさ」
 ここまで遡るだけでも、飛行機に乗り遅れた原因は新規プロジェクトということになる。
 さらに、なぜ新規プロジェクトのメンバーになったのか、なぜその会社に入ったのか……と遡っていけば、たぶん出生児、いや両親の結婚、いや両親の出生時……と限りなく過去に遡っていくことになる。
 だから、「失敗の原因を探ることは無味ではないか」と、私は思うようになったというわけである。
 むろん「原因」には、直接原因と間接原因があり、それを承知であえて、
「原因を問うことは無意味だ」
 と私は言う。
 原因を探るのは、いわば〝犯人捜し〟だ。
 なぜ失敗したのか、なぜ自分は不幸な境遇にあるのか……等々、原因という〝犯人捜し〟をし、犯人がわかった段階で精神的に一件落着となる。
 この〝落着感〟がクセ者なのである。
 失敗の原因など、どうでもいいのだ。原因を探せば、ときに自分の出生以前にさえ遡るのだ。そんなことより、失敗したという現実を受容し、次にどういう手を打つか、だけを考えるべきなのだ。
「学習」とは、失敗の原因を探ることではなく、二度と轍を踏まないことなのである。
「だから、そのためにも原因を探らなくては……」
 と考える人は、結局、同じ轍を踏むことになるのだ。
 誰が悪いのでもない。失敗を繰り返すまいとして原因を探る、その考え方が間違いなのである。
 靖国問題しかり、太平洋戦争しかり、中東問題しかり、テロしかり。
「侵略だ」
「いや、挑発した」
 原因を探るのは、結局、何の解決にもならないのである。
 ついでながら、恋愛もしかり、離婚もしかり、親子関係もしかり、学校荒廃もしかり……。「なぜ」を問うているうちは堂々めぐりするだけなのである。

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