1年前の正月から、このブログを書き始めた。
その最初のメッセージに何を書いたのかと思い、バックナンバーを見てみると、「正月は人生のリセットである」と書いている。
《だから今年は、いろんな時節をとらえて人生を積極的にリセットすることに決めた。一度でうまくいかなければ、何度でもリセットすればよい。節分、お彼岸、年度始まり、端午の節句……。書き損じた人生は、ポイとクズ籠へ放り込めばいいのだ。》
一文を、そう締めくくっている。
あれから1年。
振り返れば、節分と言わず、お彼岸と言わず、我が人生は書き損じの連続で〝毎日がリセット〟であった。と言うことは、正月から1年、何の進歩もなかったということなる。
何をもって「進歩」とするかは人それぞれなので、ここでは語らないが、私にとって「こう生きたい」と願った1年ではなかったということである。
で、今年は、その逆をやってみることにした。
書き損じた人生をポイとクズ籠へ放るのではなく、トコトンこだわってみるのだ。
すなわち、
《煩悩せざらんことをほっせば、今すべからく煩悩すべし。思量せざらんことをほっせば、今すべからく思量すべし》(大慧宋杲著『大慧普説」巻4)
この言葉は、最愛の息子を亡くした湯思退(とう・したい)が、宰相という立場から泣くこともできずに苦悩する姿を見て、大慧が語りかけたものだ。
「悩みたくないと望むなら、いま悩みなさい。思い煩いたくないと望むなら、いま思い煩いなさい。我が子を亡くして泣かない親がありましょうか、どうぞお泣きなさい」
と言って諭したのである。
この教えの意味するところは、
「悩み切ること」
「泣き切ること」
「思い煩い切ること」
といったように、苦悩や悲しみを、その場で全部出し切って心を空にし、引きずるな、ということだ。
人生は、喜怒哀楽と道連れの旅である。
騙されれば頭にくるだろう。
大失敗すれば、泣きたくなる。
ここ一番の難事を乗り切ることができれば、
「バンザイ!」
と叫びたくもなるだろ。
だが、社会的立場だとか、世間体などを考えて、喜怒哀楽をぐっと我慢せざるを得ないこともまた、往々にしてあることだ。
大慧は、この我慢がよくないと説く。
自我を殺し、平然としていられるなら、それはそれで立派なことだが、多くの人は、我慢することがストレスになってしまう。
泣きたいときに泣けなければ、悲しみをずっと引きずることになる。
怒るときに怒らなければ、怒りをずっと引きずることになる。
悩みの解決を先送りすれば、ずっと悩み続けることになる。
これがよくないと、大慧は諭す。
だから、世間で言うではないか。
「泣いたカラスが、すぐ笑う」
泣き切れば心から悲しみは消えてしまうのだ。
〝瞬間湯沸かし器〟でカミナリを落とす人は、怒りを後に引きずらない。
反対に、怒るときに怒らない人は、ネチネチといつまでも嫌味を言うのである。
今年1年がどうなることやら自分でも見当がつかないが、1つの試みとして一切のリセットをやめ、人生という日々の現場で「のたうつ年」にしてみようと思っている。
「のたうつ」とは、悶え、苦しむことだけではない。
解決を求めて、ジタバタすることでもない。
どんな困難に直面しても、泰然自若。笑顔で淡々と耐えることもまた「のたうつ」であろうと、私は思っている。
それができるかどうか。
楽しみながら、今年1年を送ってみたい。
年頭の覚悟は「のたうつ1年」
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