毎朝5時に起きている。
楽ではない。
ことに私の場合、〝起きる必然性〟がないから、なおさらのことだ。
早起きの本を読んでみると、共通するのが、
「目ざめると同時に、パッと布団から跳ね起きろ」
というものだ。
(そうだろうな)
と思いつつも、最初はその意味がよくわからなかった。
しかし、よくよく考えてみると、「布団から跳ね起きろ」には、深遠な意味がふくまれているだ。
それは、こういうことだ。
ぐずぐずして寝床を起き上がれないのは、物理的に「眠い」こともさることながら、
(こんなに眠くちゃ、一日がもたないじゃないか)
という思いがあるからだ。
ところが、パッと起きてみると、当初は頭がボーッとしているが、やがて霧が晴れるように目ざめてくる。
ここなのだ。
「パッと起きろ」の真意は、
「パッと跳ね起きてみなさい。〝こんなに眠くちゃ、一日がもたないじゃないか〟という懸念は錯覚であることがわかりますよ」
ということなのだ。
本にはそんなことは書いていないが、私はそう思うのである。
あるいは、サウナの水風呂が同じだ。
手を漬けてみて、
(こんな冷たい水に入るのは大変だ)
と思う。
水風呂の冷たさが、ずっと続くものと思うからだ。
ところが、いざ身体を沈めてみると、冷たくはあるが、思ったほどのものでないばかりか、気分は爽快になるのである。
「今」が眠い、冷たい、苦しい、つらいからといって、その延長がそうであるとは限らない。
逃避せず、現実を甘受することで、そこから脱却できる。
このことを知るのが「目ざめ」であり、「さとり」というのではないだろうか。
朝5時起き、そしてサウナの水風呂は、そのことを私に教えてくれるのである。
5時起きと「さとり」
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