「伝えたいこと」と「伝わること」は同じではない。
法務を通して、このことを痛切に感じる。
導師控室でご葬家の方々にお目にかかったとき、あるいは法事で施主宅にお伺いしたときなど、何か一言お伝えできれば思って話をする。
こうした場合は法話とは別で、堅苦しくならないよう雑談を通して話をするのだが、あるご葬儀でのこと。
ご年配の父親を見送った喪主の長男氏が、火葬場で私と別れるとき、しみじみとこうおっしゃった。
「ある年齢になればボケるのは当人にとって幸せだったかもしれない、そんなお話をされましたが、確かにそうかもしれませんね」
通夜のとき、導師控室で、認知症を患っていた故人について私はそんなことを口にした記憶がある。
それは雑談であって、私がこのとき言いたかったのは、
「人は必ず死に別れていく。肉親との死別はつらくとも引き受けるしかない」
ということだった。
つまり、これが「私が伝えたかったこと」
ところが喪主に「伝わったこと」はそうではない。
故人は認知症であったがゆえに心労から解放されたのだろうという「納得感」だった。
こうした経験から、ビジネスの場を含め、「何を伝えたいか」よりもまず、相手に応じて「何が伝わるのか」を考え、その上で「伝えたいこと」を構築すべきということだ。
釈迦の言う「対機説法」とは、まさにこのことを言うだろう。
言葉は悪いが、「相手を手のひらで転がす」ということになる。
こう考え、人間関係を「会話のゲーム」と考えれば俄然、面白くなってくるではないか。
「人は必ず死に別れていく。楽しむなら生きているうちだぞ」
愚妻に言ってみる。
撒(ま)き餌(え)だ。
私にしてみれば、
「そうね」
という返事を得て、
「さて、何を楽しむかな」
話を遊びに引き寄せる算段でいたところが、
「ちょっと、なに考えるのよ」
ジロリと睨まれ、私は次の言葉が出てこない。
とてもじゃないが、手のひらで転がせるタマではない。
わかっているはずなのに、ついつい試してみたくなるのは、私の悪い癖なのである。