田んぼの畦(あぜ)に彼岸花が咲きはじめた。
秋桜(コスモス)が小さな花をつけ、風にそよぐ細い茎の上を赤トンボがにぎやかに飛びまわっている。
その一方で、夏の終わりに焦ってか、蝉の鳴き声に悲壮感がある。
四季の移ろいを五感で感じるのは、ウォーキングの楽しみの一つである。
人生を四季に分けるのは古来の人も考えていたことで、インドでは次の四つに分けている。
若いときが「学生期」で、勉強し修行する期間。
壮年期が「家住期」。
仕事に励んで一家の面倒をみる、働き盛りの期間。
そして、存分に働いて一段落すると「林住期」となる。
静かに林のなかで瞑想して人間性を高める期間。
最後は「遊行期」。
全国を臨終まで行脚し、最後はガンジス川沿いに住み、逝去したら、屍(しかばね)は茶毘にふし、灰は川に流される。
魂は川の水が蒸発するように天に昇り、人々に恵みをもたらす雨となってまた地上に降りてくる。
私たちは生命の根源である「水」から生まれて「水」に還るという、いわば「輪廻転生」の考え方につながっていく。
つまりは、人生を四期に分け、自分の年齢に応じた生き方をするのが、自然で幸せな生き方というわけだ。
となると、私は「人生の四季」のどの季節にいるのか。
「林住期」を過ぎ、「遊行期」に足がかかったところだろう。
いよいよあとがない。
ならば、早々に全国を臨終まで行脚しなければなるまいが、そう簡単ではない。
全国行脚どころか、田んぼ道を一時間ほどチンタラ歩いて、ハイ終わりである。
これではつまらない。
よし、これからはウォーキングではなく、「遊行(ゆうぎょう)」と呼ぼう。
で、昨夕。
「おい、遊行に出かけるぞ」
愚妻に告げると、ジロリとニラんで、
「ちょっと、ヘンなゲームなんかしないでよ」
愚か者が、「遊行」を「遊技場」と聞き違えているのだ。
人生の四季について説いてやろうかと思ったが、やめた。
愚妻に四季はなく、延々と「猛暑日」なのだ。