昨夕、赤坂エクセルホテル東急で、昇空館の役員新年会が開かれた。
コロナのせいで、新年会は3年ぶりだ。
例年であれば、会員は誰でも参加できるが、事務局ではコロナを勘案して役員に限ったのだろう。
利害関係の無い「同好の士」とあって気の置けない楽しい時間だったが、役員ということで平均年齢がいささか高め。
「何はともあれ健康第一」
そんな話題が多かった。
実際、健康は言うまでもなく大事である。
だが、病を得ることで気づくこともあると仏教では教える。
「健康のありがたさを知る」
といったことではなく、
「健康でなければ幸せではない」
という思いこそ我執であるという気づきである。
病気であろうとなかろうと、
「いま、ここに在ることにおいて人間は等しく幸せである」
ということに目覚めたなら、病は決してネガティブなものではない。
そんなことを帰途のクルマのなかで考え、帰宅するなり愚妻に言った。
「おい、喜べ。おまえは乳ガンによって大きな気づきが与えられるぞ」
愚妻は一瞬、キョトンとしてから、
「ちょっと、人ごとだと思って!」
怒っていた。
経典『無量寿経』に、
「天道は自然(じねん)にして、蹉跌(さてつ)することを得ず」
とある。
蹉跌とは「挫折」「食い違う」といった意味から、
「天道は間違うことがない」
と読み解く。
すなわち、水が高きから低きに流れるのも天道自然であるなら、生まれてきた者が死すのも天道自然。
生きていれば病を得るのも天道自然。
「したがって、おまえが乳ガンになったのも天道自然である」
「ちょっと、冗談じゃないわよ!」
カンカンに怒らせてしまった。
猫に小判であるなら、凡夫に説法なのである。