女性蔑視、女性差別、森喜朗さんも大変ですな。
蔑視も差別もあっていいはずがないのは当然としても、「蔑視」「差別」という言葉は、現代社会において相手を批難するときの〝錦の御旗〟である。
だから、我が家では先日からこの言葉を用いてガンガンやりあっている。
テレビを見ていて、私がプッとオナラする。
「ちょっと!」
愚妻が怒る。
すかさず、私が猛抗議する。
「蔑視だ! 差別だ!」
「どこが蔑視なのよ! どこが差別なのよ!」
「バカ者! 声もオナラも同じ身体から発する音ではないか。口から出る音はよくて、なぜケツから出る音を批難するのだ!」
これで私の勝ち、と思ったら、
「そういうのを屁理屈って言うの!」
愚妻もしたたかなのだ。
蔑視も、差別もあってはならないが、一方で、
「だけどなァ」
と思うのだ。
ひとたび吊し上げられたら最後、謝っても、反省しても赦してはもらえない。
完膚なきまでに叩かれるとなれば、口ではきれいごとを言い、腹のなかではそれに比例して悪態をつくようなっていくのだろう。
『無慚愧は名づけて人とせず』
これは涅槃経に出てくる言葉で、『慚愧』は一般に「ざんき」だが、仏教では「ざんぎ」と読む。
『慚』はみずからに恥じる心、『愧』は天に恥じる心で、蔑視したり差別したりする自分に対して慚愧する心がなければ、人間でなく畜生ということになる。
ここが大事なのだ。
だから私はオナラを機縁と考え、「慚愧」について愚妻に説いた。
「オナラを責めてはならない。オナラを蔑視し、差別する自分の心を問うのだ」
「臭いじゃないの!」
柳眉を逆立てた。
私のありがたい説法も、森さんの進退同様、現実の前に木っ端微塵になってしまうのだ。