今朝、親父と女房、娘とその孫二人を連れて、お墓の掃除に行ってきた。
孫(2歳と4歳)が、私たちのマネをして、
「ナンマイダブ」
と称えながら手を合わせている。
いい機会だから、合掌や墓参の意味を教えようとしたら、
「あなたは白骨だとか何とか、教え方が過激だからダメよ」
女房からクレームがつき、娘も、
「そうね」
とバチ当たりな賛意を口にしている。
娘の亭主が同席していれば、私の味方をしてくれるのだが、今日は仕事に出ている。
やむなく孫への解説は断念したが、孫たちが意味もわからず、一心に手を合わせる姿を見ていて、ふと、私は「感謝の念」が希薄になっている自分に気がついた。
他人と我が身をくらべながら、つい損得でものごとを推し量ってしまう。
自分はいつも正しく、悪いのは周囲であり、時世であり、環境であると無意識に抗弁している。
それは間違いなのだ。
幸せも不幸も「在(あ)る」のではなく、それを心がどう受け止めるかの違いだけなのだ。
それがわかっているはずなのに、「感謝の念」が薄い自分に気がついたというわけである。
芭蕉であったか、
「万婦、ことごと小町なり」
という言葉がある。
美醜という評価を超えて、すべての女性に美しさを見る。
「万婦」はたとえで、幸も不幸もすべてを受け容れ、泰然とした日々を過ごすところに真の意味の幸福がある、と、これは私の解釈である。
「万婦、ことごと小町なり」
と心のうちでつぶやきながら、墓前で手を合わせる我が古女房を見やる。
見やって、
(ウーン)
と、私はうなった。
「ことごと小町なり」とは言うものの、世間には例外というものがあるのではないか。
それとも、私の人格が完成にはほど遠く、美醜という評価にとらわれているのではないか。
思いは千々に乱れながら、
「ナンマンダブ、ナンマイダフ」
と称えた朝のお墓掃除であった。
万婦、ことごとく小町なり
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