歳時記

釈迦と凡夫と、どこが違う?

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 お釈迦様は罪つくりな方である。
 なぜなら、インド北部を治める釈迦族の王子として生まれ、なに不自由なく暮らしていたというのに、
(この世に生きることにどんな意味があるのだろうか)
 と悩み、出家してしまったからである。
 王子様の境遇は我ら庶民のあこがれであり、王子や王様になれなくとも、少しでもいい暮らしをしたいと願う〝目標〟でありながら、その〝目標〟が、生きることの意味を求めて苦悩するのだから、我々は何を人生の目標にして生きていけばいいのだろう。
 まったく罪つくりな話ではないか。
 しかも、お釈迦さんが難行苦行の末に悟ったことといえば、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」の4つ。
 この4つを四法印と言い、その意味は、
「あらゆるものは変化し続けている」
「あらゆるものは因縁によって生じ、そこから独立した自己は存在しない」
「人生は苦である」
「煩悩から解き放たれたら安らかな気持ちになる」
 というもの。
 ただし、四法印などと言うからもっともらしく聞こえるのであって、この4つは、私たちもとっくに知っていることなのである。
「栄枯盛衰は世の習い、とはうまいこと言ったもんでんな。わしも昔は、ええ生活しとったのに、いつまでも続きまへんがな」(諸行無常)
「しゃあないな。自業自得、自分でまいた種や」(諸法無我)
「貧乏ヒマなし。人生、苦もんやで」(一切皆苦)
「働けど我が暮らし楽にならず。いっそ首くくったら楽になれるんやがなァ」(涅槃寂静)
 私たちは難行苦行などしなくても、四法印は先刻、身にしみて知っているのである。
 だが、私たちは、四法印という真理を実体験で知ってはいても、悟りとはほど遠いところにいる。
 なぜだろうか。
 それは、釈迦は四法印を人間が本来、裡(うち)に有しているもので、「人や環境のせいではない」と説き、ここから人生を観るのに対して、私たちの〝四法印〟は、その逆。
「あいつが悪い、社会が悪い、運が悪い……」
 みんな人や環境のせいにして人生を観る。口に出さずとも、心のどこかにそんな思いがある。
 だから四法印を実体験で知ってはいても、〝悟り〟とはほど遠く、不平不満のうちに人生を終えるのである。
 釈迦族の王子様は、恵まれた境遇をわざわざ捨てることで悟りに至った。
 私たち庶民が王子様ほど境遇に恵まれていないということは、逆説的に言えば、それだけ悟りに近いスタンスにいる、ということになるのではないか?
 王子様の地位を捨てたお釈迦さんのことを〝罪つくり〟と思いながら、一方で、ふとそんな思いがよぎっるのである。

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