生まれるときも、死ぬときも、自分の「意志」はいっさい介在しない。
そのくせ、生きていく労苦は「自己責任」である。
ポンとこの世に産み落とされ、苦労して生き、
「はい、もう結構です」
となって死んでいく。
「それでも人生、やっぱり楽しかったね」
と思えるかどうか、ここいらに宗教の出番があるのだろう。
結論的に言えば、どういう気持ちで死と向かい合い、日々を生きるかというに尽きる。
死は遠くにあるものとして享楽的に生きるか、「明日は知れないもの」と心に刻んで生きるか。
坊主の立場としては後者である。
だから、愚妻にいつも言って聞かせるのだ。
「あと何年、生きるつもりだ」
「そう長くは生きれないぞ」
「明朝も目が覚めるとは限らないんだぞ」
だが、「馬の耳に念仏」なら、「愚妻に説法」である。
「なんとでも言って」
聞く耳は持たないのだ。
そこで最近になって考える。
本当に「後生の一大事」を心にかけて生きることは大切なのか。
享楽に生き、煩悩の海に溺れ、たとえ苦しもうとも、限られた寿命であるならそれもまたよしではないのか。
イソップ寓話の「アリとキリギリス」は、本当はどっちが幸せだったのだろう。
つくづく考えさせられるのである。
こうした寓話を、「仏教的視点」と「現実的視点」から読み説いてみれば、新しい生き方論になるのではないか。
〆切に追われながらも、法務から帰宅すると、ひょいとそんな考えがよぎるのである。