《一病息災》という諺がある。
持病を持った人を元気づけたりするとき、この言葉を口にする。
「大変だろうけど、まっ、一病息災ってこともあるからさ」
ガハハハと笑って励ましたつもりでいる。
実を言うと、意味はよく知らない。
感覚的にはわかるが、説明しろと言われると、ちょっと困る。
で、昨夜のこと。
編集諸氏と酒場で打ち合わせをしていて、いつものように話題は脈絡なくアッチコッチへ飛びまくり、やがて健康のことになった。
「私は腰痛があるんですが、一病息災だと自分をなぐさめてるんですよ」
と、編集者の一人が《一病息災》を口にして、
「たしかに持病が一つくらいあるほうが、健康に注意しますよね」
と、我が身に言い聞かせるように頷いていた。
(なるほど、《一病息災》とはそういう意味だったのか)
私は合点しつつ、
(いや、本当にそうか?)
という疑問がもたげてきたのである。
そして、《一病息災》という意味についてマジに考えてみた。
結論は、以下のとおり。
「病(やまい)とは、苦しみや不幸を象徴的にあらわしたもので、一つの〝病〟に苦しみ、それがやっと過ぎ去ったと思えば、すぐにまた次の〝病〟が襲いかかってくる。
仏教では、この世は《一切皆苦》――すべてのものは苦しみであるとするように、〝病〟からは逃れられない。
となれば、いま我が身と共にある〝病〟から徒(いたずら)に逃れようともがくのは、逆説的に言えば、新たな〝病〟を求めることにほかならない。
以上のことから、新たな〝病〟に戸惑い苦しむよりは、慣れ親しんだ〝病〟と共にあるほうが楽ではないか。
《一病息災》とは、いまある〝病〟から逃れようとするのではなく、とことん共生するのだという前向きな覚悟を説いたものである」
これが、私の結論である。
亭主に対する不満、女房に対する不満、職場、上司、部下、境遇……等々に対する不満。
だが、不満は《一病》なのだ。
この《一病》のおかげで《息災》であるにもかかわらず、《一病》から逃れようとする。
「こんな会社、辞めてやる!」
飛び出して、より幸せな人生が送らるなら結構なこと。
多くは、
(こんなはずじゃなかった)
と、かつての《一病》を懐かしむのである。
「一病息災」という人生観
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