このところ、私の空手道場に入門希望者が多い。
ほとんどが小学生で、「しっかりした子に育てたい」と、親御さんは口をそろえる。
武道は「子育て」にとても有用だと思う。
その理由をひとことで言えば、武道は「格闘術」を「道」にまで昇華したものであるからだ。すなわち、武道の根底には死生観があり、そこから「生」を照射するところに素晴らしさがある。
ひらたく言えば、殴ったり蹴ったりと、相手をやっつける稽古をする一方で、「人にやさしくあれ」と教えるわけである。矛盾に見えるが、「死」があるから「生」が理解できるのと同様だと思っていただければいいだろう。
この矛盾の同時成立こそ、武道の真髄であり、素晴らしさなのである。
理屈はともかく、子供を連れて見学に来る親御さんに、一つの共通項があることに気がついた。
「ウチの子、続くでしょうか」
こんな質問が、必ずといっていいほど出てくる。
辛辣な言い方をすれば、私は、ここに親の弱さを見る。
すなわち、「続くか否か」という〝結果〟を先に考え、その〝結果〟から遡って、入門するかどうかを決めようとする。「当たるなら、宝クジを買う」という思考であることに、親御さんたちは気づいていない。
仕事も、勉強も、いや人生そのものにおいて、〝結果〟など予測はできないだ。
「うまくいくだろうか」
と、あたかも〝結果〟が勝手に出てくるように考えるのは、〝傍観者〟の発想なのである。
結果は「出るもの」ではなく、自分で「出すもの」なのだ。
したがって、道場に見学に来る親御さんは、「続くかどうか」を館長の私に問うのではなく、「続ける覚悟があるかどうか」を我が子に問うべきであり、こういう親の姿勢が、我が子を強く育てると私は思っている。
「自信」も同様だ。
コトに臨んで、ムクムクと腹の底から自信がわき起こってくれば結構なことだが、現実はそうはならない。不安を抱く自分が情けなくなる。「自信はわいてくるもの」と間違った思い込みをしているから、いつまでも不安を引きずるのだ。
自信はわき起こってくるのではなく、「持つもの」なのだ。
「よし、やるぞ!」
強がりでもいいから、自分を奮い立たせてみるがいい。
不安を引きずりつつも、奮い立った結果を「自信」と呼ぶのだ。
「自信」は持つもの、「結果」は出すもの
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