一昨日は、当道場の審査会。
子供たちなりに緊張していて、何やら微笑ましくなる。
「緊張」というのは、たとえば飛行機が離陸して上昇するときに大きな抵抗を受けるが、それと同じではないか。
止まっている状態から滑走を始めるので、エンジンは最大出力を要する。
高く舞い上がっていこうとするから、引力に逆らう。
これらの抵抗に負けまいと奮い立つことが、すなわち緊張感というわけだ。
こう考えていくと、歳を取るということは、巡行飛行から着陸態勢に入っていくことを意味する。
降りていくのだからエンジンを噴かす必要はない。
重力と自重で降下していく。
抵抗がないため、奮い立つこともなく、したがって緊張感もないというわけだ。
こう考えていくと、加齢とは緊張が希薄になることであり、老後とは緊張感を失った生活ということになるだろう。
ある年齢になれば、離陸も上昇もしなくていい。
そのかわり責任ということを考えたい。
人生の先人として、あとに続く者たちに対する責任。
上司としての責任。
親としての責任。
そして私は、空手指導者としての責任ということを考える。
実年を過ぎた人間にとって緊張感とは「責任」に付随するものであり、緊張感のない生活は、「責任」というものに対して無頓着か、逃避していることを意味するのではないか。
審査会で、ふとそんなことを思ったのである。
「緊張感」と「責任」
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