不平不満は、幸せの証(あかし)である。
幸せな人間は、たとえていえば、満天星の下にいながらもそのことに気づかず、白昼の空に星を探して、あれが欲しい、これが足りないと不平不満をもらすのと同じであるからだ。
夜空を背景にすることで星の輝きに気づくように、幸せもまた、苦労や不幸を体験してこそわかる。
このことを、ことわざで『楽人(らくじん)楽(らく)を知らず』という。
「何の苦労もなく気楽に生きている人には、かえって安楽のありがたさがわからない。苦労してはじめて安楽のありがたさがわかる」
という意味で、これを逆説的に言えば、
「不平不満は、幸せの証である」
ということになる。
となれば、これといって不平不満のない私は、どういうことになるのか。
「幸せ」なのか「不幸」なのか。
愚妻は、
「好き勝手に生きて、あなたのような幸せな人間はいない」
と、いまいましそうに言うが、「不平不満は、幸せの証」である以上、不平不満のない私は「不幸」というこになる。
なるほど、いまにしてようやくわかった。
愚妻が何と言おうと、私は不幸な人間だったのである。
いま気づく「私は不幸な人間」
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