歳時記

人生は「花火」

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元実業家で、バブル崩壊時に都内にあった会社を潰し、千葉の片田舎で鰻屋をやっていた初老のご夫婦がいた。

趣味の骨頭を飾るのがメインで、テーブルはわずかに二つ。
鰻屋は趣味のようなもので、店は片田舎の、さらに外れにあり、開店時間は昼間の数時間だけ。
客はほとんどこない。

料理は奥さん、亭主は接客である。
接客と言えば聞こえがいいが、客相手に勝手なことをしゃべっているだけだ。

その亭主と、私は気が合った。
古い着物を「もう着ないから」と言って何枚もくれた。
それがきっかけで私は着物を買うようになり、それを仕舞うための桐箪笥を買い、いまだに愚妻に怒られている。

亭主があるとき私に言った。
「俺が死んだら花火を打ち上げるように女房に言ってあるんだ」

そのときは笑って聞き流したが、このころ亭主のこの言葉が気になるのだ。

葬儀のお勤めをすると、「人生は花火であるべきではないか」という思いがしてくる。

花火はパーンと打ち上げ、中空で散っていく。
散ってはいくのだけれども、夜空に大輪の花を咲かせる。
言い方を変えれば、「散るからこそ、咲く」ということだ。

人間も同じ。
「死んでいく命をなぜ生きる」という問いに対して、
「死んでいくからこそ、存分に生きる」
という思いがこのごろするのだ。

昨夜の通夜に引き続く今日の葬儀で、導師控室にいて、ふと鰻屋の亭主の花火を上げるという言葉よぎり、そんなことを思った。
たぶん故人が私と同世代で急死であったからだろうか。

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