私がお勤めする通夜・葬儀に、故人とおつき合いがあったということで、他宗派の僧侶が「一般人」として参列することがある。
法衣を着ていなくても、作務衣の剃髪が手を合わせて私に挨拶したりすれば、すぐにわかる。
(こいつ、自分も坊主ですと慇懃な態度で名乗りをあげているな)
ひねくれ者の私は、すぐに邪推する。
こうなると、ライバル意識がムクムクともたげてきて、読経にも法話にも気合いが入るのだ。
愚妻にこのことを話せば、
「バカみたい」
軽く一蹴されるし、私もそうは思うのだが、これは性分なのである。
「負けてたまるか」
という競争心がすぐに頭をもたげるのだ。
スズメ百まで何とやらで、抜いた、抜かれたの週刊誌記者として社会人をスタートしたことが影響しているのか、あるいは空手を長くやっているので闘争心を常に鼓舞してきたことが身にしみているのかわからないが、競るような場面に遭遇すると、すぐに「勝負!」という気持ちになってしまうのである。
ただし、競るような相手や場面以外では、そういうことはない。
自分で言うのも何だが、きわめて温厚であると思っているし、
「人が先、我はあと」
を心掛けている。
ふところ広く、好々爺こそ晩年の理想としている。
ところが、そう念じているにも関わらず、突如として、
「勝負!」
ということになってしまい、好々爺にはまだまだ程遠いと自省し、理想と現実のギャップに嘆息するのである。