大谷翔平選手が大活躍。
野球に関心のない愚妻でさえ、
「よく打つわねぇ」
薬の副作用で弱々しい声ながら、感心している。
しかし、こうもホームランを打つと、打つのが当たり前になってきて、凡打すると観戦する私たちはガッカリである。
打てなければ、「打てない」というプレッシャーがあり、ポンポン打てば打ったで、「打たなければ」というプレッシャーがあるだろう。
どっちに転んでも日々プレッシャーとの戦いということになる。
週刊誌記者時代、売れっ子タレントを取材すると、
「忙しすぎて自分の時間がない」
と不満をもらす。
しかし、「忙しすぎて自分の時間がない」ほどの売れっ子になることを夢見て頑張ってきたのではないか。
夢が達成されると一転、達成された夢に不満が出る。
人間というのは何とも身勝手なものだと、当時は思ったものだ。
だが、最近はいささか見方が変わってきて、
「身勝手であることが人間の証」
と思うようになった。
「大谷選手はすごいねぇ」
と称賛する私たちも、大谷選手が打てなくなると、
「ダメだねぇ」
たちまち手のひらを返すことだろう。
身勝手なものだ。
かつて劇画作家の故梶原一騎さんが、
「いいか、世間ほど残酷なものはないんだぞ。人気があるときは凧のように高く高く揚げておいて、ちょっとつまずくと一気に地面に叩き落とす」
そんなことを語ってくれたことがある。
広末某とキャンドル某がメディアの大バッシング。
評判とはつまり胴上げ。
掛け声とともに空中高く放り上げておいて、一斉に手をひっこめるのだ。
マッチポンプが世間。
そんなものに一喜一憂するかかれ。
我が道をいけばいいのだ。