歳時記

釈迦の説く「妻子に対する愛著」

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過日、若い父親の葬儀に出仕した。
幼い男児と妻を残しての急死である。

「老少不定なれば死は時を選ばず」
と言うが、寿命というものの不確かさを思わないわけにはいかなかった。

幼子(おさなご)は「死」ということが理解できず、棺(ひつぎ)を指さして、
「パパ、寝んね」
と、笑顔で私に教えてくれた。

火葬場の炉に納めるときも、笑顔で「寝んね」を繰り返していた。

故人もさぞかし無念の死だったろう。
奧さんも泣き崩れていた。
この幼子が成長し、父親の死というものを理解したとき、どんな思いにとらわれるのか。

そんなことを考えながら、帰途の車中で『スッタニパータ』(釈迦の言葉)の一節がよぎる。

《子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀(サイ)の角のようにただ独り歩め》

私はこの言葉を引いて、仏教小説『王舎城の悲劇』で、釈迦にこう語らせた。

「子や妻に対する愛著は、枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなもの。これは執着であり、苦の元凶の一つです。
しかも愛着をいだくのは自分にかなったものであればこそで、妻子が意にそむけば憎しみに転じる。愛憎違順(あいぞういじゅん)ーー自分の思いにかなえば可愛がり、意に反せば憎み遠ざける。愛着は不確かなものです。
執着から自分を解き放つには、筍が他のものにまつわりつくことのないように、ただひとり歩むことです」

だが、そのとおりだとは思いつつも、いま一つ附に落ちないでいる。

人間は「社会的動物」であると言われる。
一人では生きていけないとする。

だから仏教においても、
「生かされている」
と教える。

そうだろうと思う。

ことに家庭は、
「貧しいながらも楽しい我が家」
という言葉がかつてあったように、幸せの象徴ともされる。

ところが釈迦は、
「子や妻に対する愛著は、枝の広く茂った竹が互いに絡み合うようなもの」
と説く。

だから釈迦は妻子を捨てて出家し、さとりを開く。

しかし、幸せを求めて結婚し、家庭をなしながらも、苦がその家庭にこそ存在するとするなら、私たちは何と難儀な人生を生きていることか。

火葬場で別れるとき、幼子の頭を撫でてやると、無邪気にニコリと笑った。

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