年の瀬になって著名人の訃報を聞くと、なんとなく一つの時代が終わったような気になる。
今日のニュースで、作詞家で作家のなかにし礼さんが亡くなったと報じている。
これまで多くの著名人にインタビューし、週刊誌などで人物記事を連載したりしたが、唯一、ボツにしたのが、なかにしさんの記事だった。
確か、かなにしさんが直木賞を受賞して数年後のことではなかったか。
インタビューのとき、黒いマオカラースーツを着ていたことが印象に残っている。
気持ちよく答えてくれ、楽しい時間だった。
基本的に原稿は取材対象には見せないものだが、編集部が記事の正確さを期す意味と気づかいからか、事前に見せていた。
なかにしさんの場合もそうしたのだが、なかにしさんが記事に難色を示していると編集部から電話がきた。
編集者が言うには、原稿の内容が作詞家時代に比重がかかりすぎていると、なかにしさんが言っているという。
なかにしさんとしては、物書きの部分をもっと強調して欲しいとの意向だった。
和気藹々の取材だったので私は意外な気がしたが、なかにしさんとしては、このままでは掲載を拒否すると言っているという。
本気でそう言ったのか、言葉のアヤでそう言ったのか、あるいは編集者が私に原稿を直して欲しくて言ったのかわからない。
わからないが、「掲載拒否」という言葉に私はカチンときた。
「直さない。ボツにしよう」
そんなことがあった。
それ以後、なかにしさんに会う機会もなかったが、もし彼がそう言ったのだとしたら、どういう思いで言ったのだろうかと考えることがあった。
和気藹々であったがゆえに、以心伝心で「作家・なかにし礼」を強調して書いてくれると思っていて、それが違っていたので難色を示したのだろうか。
週刊誌記者時代、事件の渦中にある取材対象と近しい関係になりながら、記事が批判的になることが少なくない。
取材対象としては裏切られた思いになるだろう。
だが、記者としては本音を引き出すため、取材対象と良好な人間関係を築こうとする。
政治部記者と政治家との馴れ合いが批判されるが、記者自身がジレンマのなかで苦しんでいるはずだ。
近しい関係、良好な関係にならなければ、裏切りは存在しない。
だが、人間関係に恵まれない人生は味気ない。
矛盾をかかえて私たちは生きている。
なかにし礼さんの死の報道に、そんなことを思うのだ。