熟年に至って奧さんを亡くした場合、ご主人は悲しみだけでなく、これから身のまわりのことをどうしていけばいいのか、いささかの当惑が見受けられる。
むろん、男ゆえの勝手な想像で、
「私ならきっとそうだろうな」
と、ご葬儀の導師を勤めていて思うのである。
その点、ご亭主を亡くした奧さんの場合は、淡々として現実を受け入れているように見受けられる。
これも私の愚妻を念頭においての、勝手な想像である。
あるご葬儀で、奧さんを亡くしたご主人が納棺に際して、
「あの世でもまた結婚しような」
と語りかけ、会葬者の涙を誘っていた。
私が帰宅して、この話を愚妻にすると、
「あら、そう」
素っ気ないリアクションで、みたらし団子を頬張った。
愚妻が先に逝ったら、
「あの世でもまた結婚しような」
という語りかけは禁句であると、私はこのとき悟った次第。
別れはいろんなことを教えてくれるのだ。