歳時記

「落ち目の芸能人」と「嘲笑」

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 先日のことだ。
 サウナで汗を流していると、かつて一世を風靡した男性タレントが通販番組に出演して、ヨイショの〝サクラ〟をやっていた。
 それを見て、サウナにいた二人連れの中年客が、
「○○のヤツ、まだいたんだ」
「ああまでして、芸能界にしがみついていたいのかね」
 と、嘲笑した。
 まさに、「落ち目になった有名人は蜜の味」と言ったところか。
 だが、考えてみれば、同じ有名人でも、落ち目になって嘲笑されるのは芸能人だけではあるまいか。
 たとえば、小説家。
 世間から忘れられたかつての人気作家が、久しぶりに作品を発表したらどうなるか。
「へぇ、まだ書いてるんだ」
 とは言わない。嘲笑もしない。反対に、待望の書き下ろしと言われるだろう。
 あるいは、スポーツ選手。一流と呼ばれた選手が、二軍、三軍に落とされてなお、必死にプレイしていたらどうなるか。
「あいつ、まだやってんのか」
 とは言わない。嘲笑もしない。反対に、感動すら呼ぶだろう。
 しかるに芸能人だけは、「あいつ、まだいたの?」と嘲笑される。
 なぜか。
 それは、芸能人の多くが、「実力」という絶対的な評価ではなく、ファンという〝数の力〟でスターになったからである。
 芸能人は、いわば祭りの神輿(みこし)なのだ。
 人気が出ると、ここを勘違いする。
 担がれているにもかかわらず、担ぎ手を従えているような気分になる。
 だから落ち目――すなわち、ファンという担ぎ手に放り出されてなお、御輿はそれに気がつかない。嘲笑されて当然だろう。
 だが、ひょっとして、これと同じようなことが、私たちにもあるのではないか?
(いま自分という人間が存在するのは、自分がそうと気がつかないだけで、誰かしら〝担ぎ手〟がいるからではないのか……)
 人間は一人では生きていけないというのは、そういう意味なのかもしれない。サウナで嘲笑を耳にしながら、ふとそんなことを思った次第である。

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