小泉進次郎君に逆風である。
中身のない、具体的な提案ない、選挙演説のごとき話術に、世間は苦笑を始めた。
大マジメな顔して語るだけに、批判を通りこして、滑稽さが際立つというわけだ。
これは、「善玉」で頭角を現した人間についてまわる宿命である。
劇画作家の梶原一騎さんが生前、私にこんなことを言った。
「向谷君、世間というのは残酷だぞ。みんなで持ち上げておいて、みんなで地面に叩き落とし、それを楽しむんだ」
劇画界のスーパースターだった梶原さんが、暴力事件などで世間から批判を浴びたとき、そう言った。
毀誉褒貶は世の習い。
「なるほどな」と、このとき感じ入ったものだった。
新人や若者が頭角を現す方法の定番は、「批判」である。
批判を引っさげて体制に挑み、これに世間は喝采する。
たとえて言えば、「見習いコック」のようなもので、シェフのつくった料理にケチをつける。
美味い料理であれば、
「食材にあれだけカネをかければ、誰だってつくれるさ」
不味ければ、
「食材を吟味せずして料理人として恥ずかしくないのか」
「そんなに塩を入れたのでは健康に悪い」
「健康にいいからと言って、食の楽しみを犠牲にしていいのか」
何とでもケチをつけられる。
問題は批判を武器に頭角を現し、自分がシェフになったときである。
頭のいい人間は、みずからのこれまでの批判に立ち往生などしない。
逆手に取って、堂々と言い切る。
「カネに糸目をつけず、究極の食材を求めてみた」
「とことん健康を考えた料理をつくってみた」
何だっていい。
言葉は「言い訳になったとき」「言い訳と思われたとき」に攻め込まれるのだ。