早朝ウォーキングしながら、
「千里の道も一歩から」
という言葉が唐突に脳裏をよぎる。
「千里もある遠い道のりであっても、まず踏み出した第一歩から始まる」
という意味から転じて、
「どんなに大きな事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていけば成功するという教え」
ということになる。
「大きな事業」を「夢」や「志」に置き換えてもよい。
なるほど、これは理屈である。
だが、一歩を積み重ねたからといって千里に到達するかどうかはわからない。
頑張って歩き続け、結果はせいぜい十里ということだってある。
すなわち、「千里」という結果から、「目前の一歩」という努力を発想するところにまやかしがある。
正しくは「一歩の先に千里はある」ではないか。
「目前の一歩」という努力が、結果として「千里」になるかもしれないというわけだ。
経典『華厳経』に、
「初めて発心(ほっしん)する時、便(すなわ)ち正覚(しょうがく)を成(じょう)ず」
と説く。
「真剣に悟りを得たいと発心したときには、すでに悟りの本質をつかんでいる」
という意味だ。
これも「悟り」という結果から「発心」を考えているのではないか。
すなわち「千里」も「悟り」も終着点であり、終着点から「今」を見ているということになる。
では、今生において命の終着点である「死」から「今」を見るとどうなるか。
「門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
と、正月を詠んだ一休禅師の狂歌が脳裡をよぎる。
「めでたくもあり、めでたくもなし」
とするところが、さすが一休である。
「割り切れないものは割り切ろうせず、そのまま受け取る」
と私は解釈する。
千里に到達しようがしまいが、一歩を踏み出そうがしまいが、そんなことはどうだっていいことではないのか。
悟りも同様。
悟ろうと、煩悩に苦しもうと、どっちだっていいのではないか。
オギャと生まれ、やがて命を終えていく。
東から太陽が昇り、西に沈んでいくのと同じで、ただそれだけのこと。
ならば、
「あれもよし、これもよし」
と、自分の人生を肯定し、呵々大笑すればよい。
家を出てちょうど1時間。
早朝ウォーキングで、そんなことも考えるのだ。
「千里の道」ということ
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