歳時記

地獄について考えた

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 昨日は、新宿のホテルで、わが昇空館の新年会。
 楽しいパーティだった。
 単なる趣味の会と違い、稽古衣を着て、ともに切磋琢磨する同門ということで、人間関係にひと味違う結びつきがあるのだろう。
 武道の稽古は、楽しみのなかにも凛としたものがある。
 健康にもよい。
 この楽しさと効用がわかるのは、たぶん人生の甲羅を経てからではないだろうか。
 高齢の方にはぜひ勧めたいものと、このごろ切に思うところである。
 頭痛は医者にかかり、血液検査の結果、炎症反応が強いと言うことでクスリを処方してもらい、少しずつ収まってきた。
 10年ほど前に過労で入院したときの症状に似ているので、ヤバイかな、と思っていただけに、とりあえずひと安心である。
 そんなこともあり、今朝からウォーキングを再開した。
「ちょっと、頭、大丈夫なの」
 と愚妻が顔をしかめたが、天の邪鬼の私は逆療法が大好きなのだ。
 今朝は冷え込み、寒さが苦手の私は、頭痛にかまっているどころではなかった。
「明日はベンチコートを用意しろ」
 と愚妻に厳命し、ガタガタ震えながら歩きつつ、
「不幸から救われる方法は、より不幸のなかに身をおくことだ」
 と、忽然と悟った。
 寒さに震えれば頭痛はどこかに消し飛ぶのだ。
 となれば、幸不幸の定義にもよるが、
「最高の幸せは、不幸のどん底に落ちることによってのみ、獲得することができる」
 ということになる。
「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
 とは『歎異抄』に出てくる親鸞の言葉で、ざっくり意訳すれば、
「念仏以外の修行によって仏に成ることのできる私であるなら、念仏して地獄に落ちれば法然上人に騙されたと後悔もするだろう。
 しかし、私はそのような者ではなく、どのような修行もやり遂げることができないような人間なのだから、地獄こそが私の決定的な居場所なのです」
『歎異抄』のいろんな解説書を読んでも、「地獄は一定すみかぞし」が、どうもよくわからない。
 いや、理屈ではわかっているのだが、腑に落ちてこないのだ。
 
 私たちは浄土の対極に地獄を置く。
 本当に対極にあるものなのか。
 浄土と地獄は一体ではないか。
 表裏一体というのは違う。
 私たちの心に善悪が渾然一体となって棲むのと同じ。
 生死一如と同じ。
 不可分。
 浄土と地獄は一つなのだ。
 春先に「死」をテーマにした本を書くので、あいまを見て仏教関係の書籍を読み、風呂に浸かってあれこれ考をまとめているせいなのだろう。
 〆切の最中に、余計なことが脳裏に浮かんできて困ったものだが、そんなことを考えていると俄然、、地獄というものに興味が沸いてくる。
「おい、閻魔大王は、ひょっとしたら如来かも知れんぞ」
 先ほど風呂から上がって愚妻に告げると、
「何よ。なかなか出てこないから心配していたら、そんなくだらないこと考えたの」
 と怒っている。
 閻魔大王の化身が、一つ屋根の下に棲んでいることをすっかり忘れていたのだ。
 

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