「完璧主義」の原因は、「他人の期待に応えられないかもしれない」という恐怖心だそうだ。
先程、ネットのニュースを見ていたら、そんな記述があった。
言われてみれば、そんな気がしないでもないが、しかしこれは「そういう人もいる」ということではないのか。
なぜなら私は完璧主義者ではあるが、「他人の期待に応える」といったことなど眼中にないからである。
私が完璧を目指すのは「美学」である。
靴ひとつ脱ぐにも、ただ脱げばいいのではなく、「脱ぎ方」そして「揃え方」があるではないか。
メシだって、ただ食えばいいのではなく、「食べ方」があるではないか。
風呂だって、ただ入ればいいというものではないのだ。
だから愚妻に対しても口うるさい。
「凡夫のおまえに完璧は無理だが、完璧であろうと努力することはできる」
ことあるごとに説教するが、もとより聞く耳は持たない。
持たないどころか、
「あなたの、どこが完璧なのよ」
と悪口まで言うのだ。
30センチの物差しではスカイツリーの高さを測ることができないのと同様、愚かな妻は、私の完璧さを理解することができないのである。
そのことを、噛んで含めるように諭すと、
「バカなこと言ってるヒマがあったら、仕事をしたらどうなの」
と毒づく。
そのたびに、完璧主義者の私が、なぜこのような「不完璧」な女と一緒になったのだろうと考え込んでしまう。
結婚して、まもなく40年になる(たぶん)が、愚妻はいまだ「不完璧」のまま、大手を振って堂々と生きているのだ。
完璧なる私が心を悩ませ、不完璧なる愚妻が人生を謳歌する。
そんなことでいいのか。
「木の葉が沈んで、石が浮く」
という言葉が脳裏をよぎる。
人生の不条理を、私は愚妻の生き方から教えられているのだ。
「完璧」と「不完璧」
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