稽古発表会は無事に終了した。
開式のとき、
「おい、今年で何回だ?」
と愚妻に訊いたら、
「第9回と書いてあるでしょ」
怒られてしまった。
館長として誠に頼りない限りだが、頼りないだけに支部長や指導員たちが頑張ってくれているのだろう。
ありがたいことである。
小学生たちの演武を見ていて、自戒するのは、
「空手のための空手指導にならないこと」
ということである。
技量の向上や、試合に勝つことを目的に稽古をするのは当然だが、そこがゴールではないということ。
つまり、空手や古武道の稽古は「人生に資するもの」でなければ意味がないと、私は考えている。
では、稽古が、人生にどう資するのか。
それは個々人によって違う。
大人は、それを自分で見つけ、いかに活かしていくかということを考える。
考えること自体に意味がある。
子供は、そうはいかないので、「見つける目」を「見つけられるよう」に指導していく。
実際、それがうまくできているかどうかとなると心もとない限りだが、指導士の指針として、常に自分に言い聞かせている。
このことは空手や古武道に限るまい。
富士山が世界遺産に登録され、たいへんめでたいことだが、
「世界遺産に登録されることの本来の目的は何であるか」
という視点を忘れてはなるまい。
「手段」が「目的」「目標」になってはいないか。
自分を振り返るとは、こういうことを言うのだろうと、子供たちの演武を見ながら思った次第。
「手段」と「目的」
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