歳時記

わが心を〝水晶玉〟にする

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 明治時代、浄土真宗本願寺派に七里恒順という名僧がいた。
 七里和上は、清い心を透明な水晶玉にたとえた。
 丸くて透明な水晶玉を赤い紙に転がせば赤く見え、緑の木の葉の上に置けば緑になるという。
 つまり、心を清くしておけば、人の心やものごとがよく見えるということなのである。
 これをヒントに得て、私は融通無碍ということを考える。
 自分の人生観と価値観に縛られ、
「こうしよう、ああしよう」
 と考えるのではなく、
「水晶玉のごとく、在るがまま、成るがまま」
 という、融通無碍の生き方である。
 つまり、相手の心をわが身に投影して生きるということだ。
 で、昨夜、さっそく実践してみた。
「ちょっと、風呂から上がるときはちゃんと拭いてよ」
 愚妻が怒ったので、私は厳かに答えた。
「怒るでない。わしは水晶玉である」
「なによ、それ」
「七里恒順にいわく。わしがちゃんと拭かないということは、それはお前という人物の投影に過ぎない。なぜなら、わしは水晶玉であるがゆえに・・・」
「バカなこと言ってないで、滴(しすく)が垂れてるじゃないの!」
 愚妻にかかれば〝水晶玉〟も木っ端微塵なのである。

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