1ヶ月ぶりに九十九里の仕事部屋に来ている。
昨日、例によって温泉健康ランドへ行き、露天風呂につかっていると、上空をエンジン付きのパラグライダーが3つ4つ、九十九里浜の上を気持ちよさそうに飛んでいる。
と、凧(たこ)も2つ3つ舞っているではないか。
はるか上空なので形はよくわからないが、長い〝足ひれ〟を風にたなびかせている。
梅雨の晴れ間に凧を上げられたのでは、「正月」も気の毒なものではないか。
「お正月には凧上げて、独楽(こま)を回して遊びましょ」
と唱歌にもあるように、凧は正月のものなのである。
日本から季節感がなくなった。
野菜も果物も、季節に関係なく、一年中、食卓にのぼる。
空調によって、真冬でも室内ではTシャツだ。
これを便利と言うのだろうが、「無常」という日本人の美意識は、季節の移ろいによって培われたものではないだろうか。
正月になったら凧を上げ、冬休みが過ぎるころには凧をしまう。
夏にスイカを楽しみ、夏が過ぎ去ればスイカは食卓から消える。
季節の移ろいとは「何かを迎え、何かを失っていく」という無常の世界なのだ。
無常観のない生き方には、迎える喜びもなければ、失う寂しさもない。
それが私たちの感性に、どんな影響を与えているのだろうか。
九十九里浜に舞う凧を見ながら、そんなことを思ったのである。
九十九里の凧(たこ)
投稿日: