昨夜、稽古を終えて帰宅しようとしたら、クルマーのキィーが見あたらない。
私の仕草を見て、所用で道場に残っていた愚妻が、眉間にシワをよせる。
「ちょっと、無くしたんじゃないでしょうね」
「無くしたのではない。所在がわからないのだ」
「そういうのを無くしたって言うのよ」
「違う。キィーはどこかに存在しているが、その存在場所に私が気づかないだけだ」
「なに言ってるのよ!」
あとは、私に対して囂々(ごうごう)たる批難。
「何でもチャランポランなんだから」
「いつも上の空でいるからよ」
「私のすることにケチつけるけど、自分も同じゃないの」
あげくの果てには、
「だいたい、道場へ着物なんか着て行くのが悪いのよ」
意味不明の批難まで口にするのである。
不毛の批難は、何の解決にもならない。
だから私は言った。
「私のことを批難するより、この局面をどう脱するかが大事ではないか」
「どうするのよ」
「歩いて帰ろう」
で、翌朝。
娘から電話があり、キィーが孫のバッグにまぎれていたとのこと。
昨日は孫二人が稽古に来たのだが、道着を入れたバッグに入っていたというのである。
東京電力が批判の矢面に立たされている。
批判は当然としても、いま政府もメディアもなすべきことは、放射性物質や風評被害をどう封じ込めるかである。
事故の検証と、東電への批難は、そのあとのことではないか。
キィーを紛失して愚妻の批難を浴びながら、私はそんなことを考えたのである。
「対応」が先で、「批難」はあと
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