歳時記

「被災地」と「僧侶」

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 一遍上人に興味があり、時間を見つけて本を読んでいる。
 周知のとおり、一遍上人は鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖である。
 寺に依(よ)らず、一所不住の諸国遊行で念仏を広めた。
 また入寂に際して、
「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」
 と著作の一切を燃やした。
 この高潔さに、私は惹かれる。
 僧侶は「職業」か「生き方」かといったことが論議されるが、一遍上人の半生をたどれば、こんな論議は戯言(たわごと)に思えてくる。
 僧侶は「生き方」が問われるのだ。
 僧侶が「職業」であるなら、「職業に貴賎はない」ということにおいて、風俗業と何ら変わらないことになる。
 風俗業が悪いというのではなく、僧侶が職業(経済活動)としてお経をあげるのであれば、ソープ嬢が客の身体を洗うことと同ではないかと思うのである。
 先日、僧侶が救援物資をトラックに積んで震災被害地に駆けつけ、現地でお経をあげる様子がテレビで放送されていた。
 まさに「生き方」の実践であろうと、感動しながらテレビを観ていると、
「おや?」
 と思うシーンがあった。
 この僧侶と同じ宗派で、被災地で住職をされている方との再会場面である。
 駆けつけた僧侶と住職が抱き合い、無事を喜びあっているのだ。
 これに、私は違和感をおぼえた。
 喜ぶ気持ちはわかる。
 しかし、多くの方々が亡くなり、行方がわからない現地において、僧侶同士が無事を喜んでいいのだろうか。
「生きていてよかった」
 という思いは、
「死ななくてよかった」
 という思いと表裏をなしている。
 ある被災者の方は、
「私だけが生き残って、亡くなった人に申しわけない」
 といった意味のことを語っていた。
 つらい言葉である。
 そうした一方で、僧侶が抱き合って喜ぶことに、私はどうしても違和感を覚えてしまうのだ。
 テレビの前に座る私に、ボランティアの僧侶を批判する資格はない。
 批判どころか、立派な活動だと思う。
 ただ、それとは別に、
「僧侶とはいったい何なのか」
 という重い課題を、自分に問いかけてみるのである。

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